憲法は、天皇が「国民統合の象徴」である“べき”ことを、規定している。
これを、憲法の条文としては例外的に「事実命題」(…である、という事実の記述)
とする学説(長谷部恭男氏など)がある。
しかし、妥当ではない。
他の規定と同様に「当為命題」(…すべし、という規範の提示)と
理解すべきだ(拙著『「女性天皇」の成立』第4章を参照)。ところが憲法には、天皇が「国民統合の象徴」である為に
何をなすべきかについて、一切、具体的な規定を設けていない。憲法に列挙する13種類の“国事行為”を滞りなく行っても、
静態的な「日本国の象徴」ではあり得ても、動態的な「国民“統合”の象徴」
ではあり得ない(国事行為で広く一般国民と直接かつリアルな接点を
持つのは、「儀式」〔憲法7条10号〕中の、上皇陛下のご即位の際に
新しく始められた即位祝賀パレード「祝賀御列〔おんれつ〕の儀」だけ)。そこで国事行為とは別に、“象徴としての公的行為”が
求められることになる。
この公的行為は、国事行為とは異なり、「内閣の助言と承認」を
必要としない。
よって論理上は、天皇の主体性と自発性に基づく。勿論、現実には公的行為として慣例化して、個別の天皇ご自身の
ご意向を直接に反映できる余地が狭い場合もある(外国ご訪問の場合は、
政治的影響も大きいので、閣議決定による)。
しかし、そうではない、天皇ご自身の創意工夫、主体的・自発的な
ご意思によって、新たに始められたり、変更を加えられたり出来る
部分も、決して小さくない(但し、①国政権能に関わらない、
②象徴としてのお立場に反しない、③行為の責任は内閣が負う、
という3つの条件は課せられる)。平成時代における、上皇陛下の被災地へのお出ましや
「慰霊の旅」などが、まさにそれに当たる。それらは全て、何ら法的・制度的な義務・強制を伴わない、
天皇ご自身の主体性・自発性“のみ”に根拠を持つ行為だった。
真っ白なキャンバスに、あるべき「国民統合の象徴」像を、
上皇陛下ご自身の想像力とご発意によって、“全身全霊”で
描き上げられた唯一無二の崇高な作品だった、と言い換えてもよい。ここに紛れもなく、無私なる「天皇の自由(=天皇がひたすら“国民統合の
象徴”であられようとする自由)」が存在する、と言えるだろう
(エルンスト・カッシーラ「自由とは道徳的意志が自らに課する
規則である」〔『国家の神話』〕)。そもそも、主体性も自発性も全く抑圧され、外から与えられた
義務だけを背負った存在に対して、我々国民は“誇るべき”
「国民統合の象徴」として仰ぎ見ることができるだろうか。
素直に敬愛と感謝の気持ちを抱くことができるだろうか。憲法は、天皇を「日本国の象徴」と位置付け、国事行為という
極めて重い義務を課した一方で、「国民統合の象徴」として天皇が
ご自身の主体性・自発性を存分に発揮されることを期待している、
と理解できる。天皇陛下は、昭和天皇や上皇陛下のなさり方から深く学ばれつつ、
ご自身のお考えを加えられて、令和の時代に相応しい“象徴としての
お務め”を「自由」に創り出して行かれるのではないだろうか。なお、戦後早い時期の憲法学説として宮澤俊義氏の
天皇=「ロボット的存在」説があった(『法律学体系コンメンタール篇1
日本国憲法』昭和30年など)。しかし憲法上、天皇には国家機関としての国事行為の他に、
象徴としての地位を反映する公的行為が認められ
(清宮四郎氏「天皇の行為の性質」『憲法演習』昭和34年
→政府見解・学界通説)、後者は「内閣の助言と承認」によって
100%縛られるのではないから、そのような学説は既に
過去のものとなった。又、上皇陛下ご自身も、昭和44年8月12日の記者会見で、
以下のように述べておられた。
「(天皇は)立場上、ある意味ではロボットになることも必要だが、
それだけであってはいけない。その調和がむずかしい」と。追記
プレジデントオンライン「高森明勅の皇室ウォッチ」が
5月26日に公開された。
今回は、来る6月9日の天皇・皇后両陛下のご結婚30年を間近に控え、
今の制度のままでは、両陛下が長く苦しまれた「男児を産め」という
重圧が今後、更に苛酷になることは明らかで、そうなると
ご結婚自体が至難になることを指摘した。https://president.jp/articles/-/69701
【高森明勅公式サイト】
https://www.a-takamori.com/
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